[PR]看護師の好条件な求人情報満載:年間30,000人の転職看護師が利用中

遥かなるキングオブホビー
<無線局開局の頃の思い出 >


○ 1、開局の頃

 中学生の頃、町の本屋で購入した雑誌に、昔アマチュア無線というものがあり、誰とでも自分の家から通信ができた、などの記事が載っていました。 またその頃、別の雑誌には山で遭難したアマチュア無線家が、近くを飛んだ飛行機に懐中電灯でモールス信号を送り救助してもらう、というような記事が載っていて、まだ聞いたこともないアマチュア無線に大変興味をもったものです。 その後、2バンド5球スーパーラジオを自作し、7Mhz付近を聞いた時のことでした。
「CQ CQこちらはJA10XYZ・・」などいうコールサインの通信を聞き、これぞあのアマチュア無線なのだと、毎日よく聞いていたことを思い 出します。その後あれはアンカバー局だったのだと分かりましたが、内容は大変まじめで、いまのアマチュア局よりよほどレベルの高い内容だったように記憶しています。それは昭和28年頃だったと思います。
昭和34年4月に中野の無線学校で受験し、開局は35年5月でした。 見たことのない無線局作りを、アマチュア無線ハンドブックを唯一の先生として1年がかりで送受信機を組立て、当時は落成検査なるものが小出力の無線局にも実施され、ひやひやどきどきで受けたものです。結果は大変きれいに出来ています. と褒められて合格、「さあこれで電波が出せる」とたいへん嬉しかったものです。
初めての電波発射はアンテナの関係で7Mhzでした。さて、どうやって電波を出したらよいのか、また電波が出るかどうかも分からず、CQを出してみました。 するとどなたかOMからコールを頂いたのですが、何と応答してよいのかパニック状態となりQSOが成立しませんでした。思い切って再度CQを出し、やっと初めてのQSOが東京のJA1CEZ局と成立しました。
その日の夕方、 窓の外を見ると葉山方面の山にうすい夕焼けが出来、今まで見てきた同じ空がこの日は限りなく大きく見え、自分の電波があの空を飛んでいるのだ、と大変感動したことを思い出しました。その後は毎日のように、 自分の電波が日本中に飛んで行くことの感激と、楽しさで、時間の経つのを忘れ、目が覚めれば夜中までも、QSOを楽しんだものです。開局当事の送信機系統図
横須賀で初めて会った局が、昭和35年6月22日のJA1EHC局で、 その後JA1DCK局JA1DSW局、JA1FFP局(故人)などなど、沢山の横須賀局と交信したり、そしてアイボールしたり、本当に楽しく夢のある毎日を過ごすことが出来ました。
交信を何度かしていてもアイボールするまでは声だけで、 何とはなしにその人をイメージするものですが、JA1DCK局とJA1DSW局と3局QSOしたときのことです。開局当事の受信機系統図もしかしたらあとで寄りますとのこと、2人とも声を聞いていると、なかなかのOMのようで、そのうちにそれなりの紳士が来られるのかと、 多少緊張して待っていたところ、玄関先に学生が2人ひょっこり現れ、こんにちは、と言うのです。さてどなたかなと戸惑っていると、「先ほどの・・」とのこと、「えー学生だったの・・」びっくりしたことも、懐かしい思い出です。 開局から1年くらいのあいだは、まだ無線局も少なく、バンドがすいていたので、一度お会いした局と7Mhzでスケジュールを組むことが出来、後日また、続きのアンテナのことやら部品の入手方法など、技術的なお話を1時間も2時間も、 のんびりと行うことが出来ました。この頃の通信内容は、電波法に定められた、もっぱら技術的な内容に限っていましたので(もしかすると私だけだったかも知れませんが)、今では想像もつきませんが、ある日のQSOで「昨日は海水浴に行ってきて楽しかった・・」などの話をしてしまい、 電波法に違反してしまったと本気で悩んだこともありました。今にして思えば、この頃のアマチュア無線は夢があり、毎日が楽しく、まさしく“キングオブ ホビー”だと感じたものです。

○ 2、リグの製作

 何分にも無線機を見たことがないのです。しかし、自分でリグを作らなければ開局できません(高価な外国製の完成品もありましたが、とても手の届くものではありませんでした)。仕事の帰りに川崎から秋葉原に通ってジャンクを中心に部品を集め、 合格通知の一ヶ月後くらいから製作にかかりました。

受信機作り
  通信形受信機の製作です。3.5・7Mhz送信機外観当時コイルキットなる便利なものが、今のケンウッド社(当時はトリオといっていました)から発売されとおり、テスター位しか測定器を持たない私には大変便利で、 助かったものです。高周波1段中間周波2段の受信機ですが、この頃はMT管が主流になっていましたので、これを使い組み立てました。出来上がってみると普通のラジオとは格段の差で感度、分離、安定度等がよく、この受信機はその後追加回路(Qファイバーという回路で、 中間周波段に正帰還をかけ、発振の少し前の状態で動作させると帯域が狭くなり、感度が上がるというものですが、思ったほどの効果はありませんでした。)を付けたりして昭和40年頃まで実用機として愛用しました。

送信機作り
   次は送信機の製作です。送信機回路図開局は3.5と7Mhzの2バンドで、出力は10Wの免許だったため、アマハンの注意点を参考にして、特に回路の配置に配慮をして組立てたところ、始めの心配も取り越し苦労で終わり、何とか形にすることが出来ました。VFOは最初から分離して作りましたが、 さて発振させようと思ったとき、送信周波数の正確な校正が出来ないことに気がつきました。受信機でJJYを受信して校正しても、3.5Mhzと7Mhzのバンドエッジがはっきりしません。 そこで次に組み立てたのが校正用発信機(副標準発信機)でした。 100Khzの水晶で10Khzのマルチバイブレーター回路にトリガーをかけるという原理のものですが、これがなかなかの優れもので(10Khzの高調波が連続30Mhz位まで出る)、JJYで校正しておくと、高い精度で発振周波数の校正をすることが出来ました。6146シングル送信機回路図 当時のラジオ放送はこの校正用発信機でチェックすると、0.5〜1Hhz位周波数のずれている局がいくつかありました。

アンテナ
   いよいよ開局ですがアンテナが上がっていません。私の場合、とかくアンテナがおろそかになるようで、大急ぎで上げることにしました。近所をみてまわり、古くなりかけた鯉のぼりの棒を探して交渉し、只で2本いただくことが出来ました。これを立てるのにお隣の庭まで拝借し、 水平部20mのはしごフィーダーによる2バンドアンテナを上げることが出来ました。6146シングル送信機シャーシ図このアンテナは、フィーダー部10m水平部10m×2=20mのもので、3.5Mhzは電流給電、7Mhzは電圧給電となり、マッチングトランスで切り替えながら使いました。 また、今では考えられないことですが、7Mhz送信時にはフィーダー部分が高電位になって、近くに蛍光灯を近づけると薄く光り、TVやラジオには毎回進入するというBFなものでした。その後は同軸ケーブル給電による7Mhz専用アンテナに切り替えて、 比較的安定した電波を出せるようになりました。横須賀から真岡市にQSYするまでの間は、これに21Mhzダイポールと50MhzのGPアンテナを追加して運用していました。

6mバンドへの挑戦
   その後、アンテナは7Mhz専用のダイポールとし、送信部、変調部、電源、を別々にした送信機を作りましたが、VFOは開局当時のもので間に合いました。私のHFでのQSOもアクティビティーが少し下がり始めた1962年頃(昭和37年)から、 周辺では50MhzのFMが盛んになってきました。小原台からはJA1BIRの赤木OMが毎日のように声を出しておられ、まだ50Mのリグを持たないで一方的に聴いているだけの私は、 かなり影響を受けたものです。50Mhzトランシーバ回路図
またこの頃は、トランジスタ(PNPジャンクション形のゲルマニウムトランジスタが主流)を使用した電子機器が市販されるようになりましたので、先ずはトランジスタの回路で電波を出してみようと挑戦しました。受信は スーパー方式が実用にならなかったため(中間周波段の中和がうまくとれないので、455Khzの発信機になってしまった)、50Mhzトランシーバ外観図高周波部分に2SA70一石を使用した、超再生式の受信機としました。 当時はバンド内がすいていたため、これでも結構実用になりました。超再生式は受信時でも発振状態にあり、雑音電波をまき散らすため、今では実用になりません。送信部は、 原発信が5倍のオーバートンによる水晶発振とし(3倍オーバートン発振の方が安定に高出力を得られますが、高価なため、ジャンクを探した)、終段は2SA74シングルとしました。 このトランシーバのRF出力は、実測が出来ませんでしたが、計算上では約70ミリWでした。それでも大楠山の上から相模湾を越えてQSOをすることが出来ました。当時は出力1Wが目標で頑張りましたが、私の技量では出力0.5Wがせいぜいで、 なかなか達成出来ませんでした。それこれしているうちにトリオからTR−1000が発売され、その性能のすばらしさに圧倒されてしまい、残念ながら自作のトランシーバはこの時点でやめてしまいました。1968年(昭和43年)からはトリオの TR−5000トランシーバを購入し(初めての市販無線機)、遅ればせながら50MhzFMの世界に入り、昭和47年に真岡市にQSYするまでの4年間はローカルQSO、Eスポによる国内DXを楽しみました。

○ 3、思い出ばなし 

米軍のジャンク
   たしか衣笠と久里浜間の道路沿いだったと思います。米軍の廃品を処理している業者がありまして、いわゆるゴミの中からジャンクとして売れるものを拾い出し、整理して販売していました。誰かから、真空管などのジャンクがあるとの情報が入り、 数人で行ってみたところ、6146等の高価な真空管が沢山箱に入っていました。さっそく分けてもらおうと交渉したら、これは秋葉原の業者が一本50円で買いにくるので駄目だとのことでしたが、我々は一本80円で買うことで交渉成立、 1人で数本ずつ購入して帰り、テストしてみると全て完動品でした。味をしめ次に行ったときにはもう個人には売りませんと断られ、業者がもっと高くまとめ買いをするからとのことでした。残念。

モービル移動
   JA1YBQ主催であったか、あるいは気のあったもの同士であったかは忘れましたが、車を連ねてよく移動したものです。伊豆の韮山周辺のクラブとアイボールに、10台程度だったかと思いますが箱根を越えて出かけて、 金山跡地などの観光や、当時としては珍しいイチゴ狩りをしたこと。長野方面にりんご狩りに出かけ、帰りにある自動車会社の悪路テストコースを走らせてもらったこと。などなど、あの頃は皆若かったためか、家族ぐるみで、楽しい日々を過ごしました。

コンテストでアナゴを釣ったはなし
  何のコンテストかは忘れましたが、山田さん(JA1OZJ局で、現在は横浜におられます)の勤務先である、久里浜の港湾施設に移動して24時間運用した時のことです。空いている時間に岸壁から夜釣り(イソメをつけて投げ釣り)を始めたところ、 すぐにあたりがあり、巻き上げてみると暗闇に何か得体の知れないものがぶら下がり、星明りに目だけが光っているではないですか。こわごわ近くでよく見ると、なんとこれは形のよいアナゴでした。 その後はほとんど入れ食い状態で、中くらいのバケツにいっぱい釣り上げてしまい、翌朝はアナゴの丸焼きにして皆のおかずになりました。それでもたくさん余りましたので、何人かの方のおみやげにしてもらいました。

○ 4、現在のJA1EFK局
   現在は栃木県真岡市から、現在のJA1EFKアンテナHFは3.5Mhzから28Mhzまで、現在のJA1EFKシャックと144Mhz,430MhzにQRVが可能です(50Mhzと1200Mhz以上は出ていません)。比較的よく出るバンドは7Mhzですが、 時々14Mhz、18Mhzにも出てラグチュウすることがあります。HF用のトランシーバはTS―950Sと、移動用にFT−757GXを使用しています。アンテナは3.5Mhz:変形スローパー、 7Mhz:モノバンド ロータリー ダイポール、ワークバンド:3エレ八木、14・21・28:3〜4エレ八木、144Mhz:DP、430Mhz:13×2八木です。この範囲でしたらいつでもQRVできます。 年間300局程度の方とQSOをしていますので、是非声をかけてください。

JA1EFK 記


[PR]中古車探しは、ガリバー:在庫多数、全車保証つき!

トップページ